ご紹介!11年続いた京都が発端の【応仁の乱】について知っておきたい知識3つ

こんにちは!

 

今回ご紹介する、

京都検定に出る京都の豆知識は、

「応仁の乱」

についてです。

応仁の乱といえば、

歴史で必ず学ぶ、一大事件ですよね。

京都で発生した戦乱である、応仁の乱は、

11年続いた戦乱で、

京都で始まり、全国に広まりました。

 

そんな応仁の乱について、

京都検定対策に欠かせない

知っておきたい知識についてご紹介していきます!

 

大事なポイントは以下の3つ

⑴応仁の乱の発端は、足利義政の後継者問題と家督争い

⑵西陣織の由来となった「西陣」という地名は、応仁の乱でできた名前

⑶京都を主戦場として応仁の乱は11年続き、後半は全国に広がった

それぞれ簡単にわかりやすくご紹介していきます!

1:1457年に京都で始まった応仁の乱、発端は後継者問題と家督争い

①家督争いに後継者問題も加わった形の応仁の乱

京都で起こった応仁の乱は、

発端は、

室町幕府の官僚であった畠山家の内紛と斯波家の内紛などの家督争いに始まり、

室町幕府は西と東に分かれ、

細川勝元と山名宗全の対立や、

足利義政の後継者問題も加わった戦乱です。

京都を中心とした応仁の乱の戦乱によって、

多くの寺社や公家・武家屋敷は焼失し、

略奪や放火も横行し、

京都の人々は困窮しました。

②1467年に上御霊神社の森で、応仁の乱の戦いの糸口が開かれた

応仁の乱の発端は、

「上御霊神社」の森で始まり、

そこから11年に及ぶ戦乱となりました。

上御霊神社の門前には、

「応仁の乱、勃発の地」

という石碑があります。

 

始まりは京都ですが、

そこから全国に広がり、

泥沼化しました。

2:応仁という元号はわずか3年で終了し、戦乱の大半は「文明」に起こった

①大半は「文明」という元号で起こったので、応仁・文明の乱と呼ぶこともある。

学校の授業では、

「応仁の乱」として歴史で習うので、

有名なこの戦乱ですが、

実際、

応仁という元号は3年ほどで終わったので、

応仁の乱の戦乱の大半は、

「文明」という元号で続きました。

 

ですので、

「応仁・文明の乱」

とも呼ばれます。

②西陣という名も、応仁の乱で生まれた

京都で有名な「西陣織」

実はこの地名も応仁の乱で生まれた地名です。

京都の西陣織の名前も応仁の乱で生まれた

戦乱では、

細川勝元の率いていた東軍と、

山名宗全の率いていた西軍に分かれていたのですが、

その西軍の引いていた陣のあたりを

「西陣」と呼ぶようになったのです。

由来は600年前の応仁の乱、京都西陣織にその名前がついた理由とは?

3:京都の応仁の乱の歴史を見に行こう

①石碑や、西陣など、歴史を学べば京都観光がさらに楽しくなる

京都で勃発した応仁の乱。

「上御霊神社」に行けば、

その発端の地としての石碑も見ることができます。

また、

京都検定の勉強に欠かせない、

「京都観光・文化検定試験 公式ガイドブック」

を見れば京都についてさらに詳しくなり

京都観光がますます楽しくなります。


気になる方や、

京都検定の受験を目指している方は、

是非一度手に取ってみてください!

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ここまで読んでいただきありがとうございました!

それではまた!